When Marnie Was There: Storyboard pamphlet thingy


Some background

Front cover of the pamphlet
Woah, Marnie looks pretty ghostly here.

So apparently you can get a copy of the storyboards for When Marnie Was There, a big book that compiles scene-by-scene, cut-by-cut, all the drawings and production notes Yonebayashi prepared to make the movie. Obviously it would all be in Japanese, but it should otherwise mostly consist of artwork. Documentary material that must surely be of high value.

My amazin friend imported a copy, who upon getting it, found a pamphlet inserted. What is it. Well, upon being offered scans of it, I found it was very moonrune-dense. It must be the production memo—and that was our initial assumptions.

Did OCR, ad-hoc machine translation, etc, and yeah, that appears to be the case. We don't know any Japanese so don't know what this all says exactly; I tried to clean up the results of the machine translation, but it was too hard. I might try again another time. Feel free to use some online translate service to read this, or work off this to do a proper translation yourself.


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物語がはじまってから終わるまでずっと、私は、杏奈の表情を見つめていた。彼女が「普通」から滴ぎだしていくようすを、しっかりと見届けなければならないと、そう思っていた。

物語の舞台は北海道だ。療其のため、夏休みのあいだ状母の親戚の家で暮らすことになった少女・杏奈は、ある入り江で金髪の少女・マーニーに出会う。マーニーと交流することで、冶奈は思いがけない体験をすることになる。そして、マーニーとの夏の思い出のほんとうの意味がわかったとき、林奈は、予期せぬ上真実を知る―。「思い出のマーニー」は、ファンがみな期待しているスタジオジブリ作品としての一面と、いままで誰も観たことのないスタジオジブリ作品の一面を併せ持っている。だからきっと、観客の反応は賛否両論となるだろう。そ

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れは当然だ。新しいことをはじめようとする人には、選ず、応援する人とそうでない人がいる。他人の「挑戦を「迷走」と名付け直し、線引きをすることに必死になる人は、とどこにでもいるのだ。

まずは、ファンの方々に安心していただくという意味も込めて、さききほど述べた「ファンがみな期待しているスタジオジブプリ作品としての一画」に軽く触れておくこととする。今回槍られるその一画は、映画ではもちろんのこと、このような絵コンテ柴だと特に楽しめるかもしれれない。

それは、絵の力だ。アニメの艇力が絵だなんて当然のことを、と笑われても仕方がないが、だからこそきちんと書き残しておきたい。これまでもジプリは、私たちの憶れや夢、ロマンを美しい絵にして差し出し続けてくれた。選界を教う筋取な少女、わんばくな少年とミステリアスな少女の冒険、飛行機に乗る用に信百万の神々が集うう湯屋「思い出のマーニー」では、より身近なところにある私たちの憧れ、夢、ロマンが染しめるのだ。足の先から順番に浸されていく湖水、ざぎっくりと気持

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ちのいい音を立てて二つに割れるスイカ、家族と荷物でぎゅうぎゅうづめになる小さなおんほろの車、だれもいない森の中を抜ける秘密のちかみち、着償れない浴衣と履き慣れない下駄で必死に歩くのは、夏祭りへと続く神社の炊段……本編のそこらじゅうに、小さな精に開じ込めてずっと持ち歩いていたいような「あのころ」の日々が存分に許まっている。描かれていることをまるごとは経験していなくとも、懐かしい、という思いにもが表される。上映中、こちらは少しも油断できない。少しでも気を抜いてしまうと、ほんの一瞬のシーンに、「あのころ」の夏まで運ばれてしまいそうになるからだ。

それは、私たちが少年、少女だった「あのころ」の更だ。どうしてもっと上手に生きられなかったのだろうと、大人の頭でいまでも思い返してしまうような、あのかけがえのない夏の日々だ。

この志には見えない魔法の輸がある。庁奈は、私たちにそう語りかける。大人になると、その輪を見る能力というものが少しずっ備わってくる。他人が人和何を考えているのか、言葉には出していないけれど心の中ではどう思

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っているのか、大人になると想像できるようになる。だ から、自分が触れるべきではない人の輪に近づかないよ うにしたり、いかにも自然にその輪を飛び越えたり、は たまたどかしてしまったりすることも、なんてことない 交でできるようになる。ただ、「あのころ」の私たちには、 その輪を見る能力がなかった。だから、クラスメイトと のいざこざぎ、仲間外れなど、人の輪の内側と外側で起こ る出来事にあんなにも心を悩ませていたのだ。

杏奈は常に、輪の内側にいることがなかった。学校で クラスメイトと過ごしているときも、家で家族と過ごし ているときも、申分は常に輪の外側にいるのだと感じて いた。

そんな杏奈が、生きていくために生み出した方法があ る。杏奈はそれを、いごとという形で七夕祭りの筐則 に書き記している

【毎日普通に過ごせますように】

ここで、「いままで誰も観たことのないスタジオジプ リ作品の一面」という先述の言葉を思い出してほしい。 主人公である斉奈の表情は、特に物語の前半において、

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ほとんと変わらない。町の子どもたちと一緒に七タ祭り に参加しているというのに、耕奈が笑うことは一度もな い。ずっと、普通、なのだ。表情どところか、喋口調に も抑揚がない。普通、を徹底している。

これまでのジブプリ作品のヒロインといえば、大きな口 を開けて笑ったり、大きな零を落として泣いたり、みな、 表情がとても豊かだった。どうして杏奈は、そうなれな かったのだろうか

それは、杏奈は自分のことを客観視しているからだ。 これまでのジブプリ作品のキャラクターは、自分のことを 客観視していないことが多かった。パズーとシータは出 会ったときから両思いだったし、キキは人々が行き交う 街中でホウキにまたがることができた。だが杏奈はちが う。杏守は、ひとりで鼻歌を歌いながら歩いていたとし ても、町の人とすれ違うときには、日をつぐんでしまう それこそいまこの時代に、ジブリ作品のキャラクターの ように振る畠うことは普通ではないということを、杏奈 は誰に言われるでもなく理解している。一言でいうと、へ 杏奈は空気を誌ものだ。それが、これまでのジブプリ作品

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のキャラクターとは決定的にちがう点だろう。

講宗は、普通に生きたい。人々が作り出す輸に触れな くていいように、感情も、表情も$も、いつも普通でありた い。普通を飛び出さなければ、悠つく可能性も少なくな ると、そう思っている

どうしていま、海外の古典文学を映画化するのか、そ うう言いたくなる人もいるかもしれない。だが、観終わっ てみればわかる。これは、いまこの時代にこそ作り直さ れるべき物語なのだと。コミュニケーションツールの発 達により、見えなくてでよかったいろんなものが見えるよ うになってしまったいま、人々が作り出す輸はもう喧法 ではなくなってしまった。大人でなくても、杏宗のよう な少女でも、その軸は目に見えるようになってしまった。

空気を議所ことが晴黒の了解となり、たったひとこと の失言で人生がまるごとひっくり返されてしまう。そん な、全員が全員を監視しあっているような世の中のまん なかで、在宗は、穏やかに笑う金髪の少女に出会う。

その少女、マーニーは、杏奈が不思議と心惹かれてい た「湯っ地屋骸」に住んでいる。奉守は、マーニーに会

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うために、屋難が見える入り江に通うようになる。

杏奈はマーニーと出会うことで変わっていく。マーニ ーに誘われれば、これまでの禁奈ならば絶対にしなかっ ただろう、知らない大人たちばかりがいるパーティーに 花売りもすめとして区びびこもさといういたずらも実行でき てしまうのだ。さらにお互いのことをもっと知りたいと 思うふたりは、一日三つと決めて、お互いに質問をしあ う。杏奈はその中で、いままで論にも話せなかった、自 分の家族についてのある秘密を告白する。

マーニーとの出会いにより、奈は少しずつ、江通、 を慰び越えていく。よく話し、笑い、ましては踊り、怒 り、泣くようになる。普通ではいられなまくなるのだ

マーニーは何者なのか。この物語の中心には、その謗 が握えられてでいるように見える。だが、私には、その謎 解きの内容よりも、杏奈が普通でいられなくなる過程の ほうが、より和魅力的に感じられた。

普通でいられるということは、自分を律することがで きでているということである。つまり、普通でいられなく なるということは、奉奈にとって、他人の視線を気にし

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たり自分を傷つけずにいることよりも、もっと大切なこ とが生まれたという証なのだ。

物語のラスト、海辺の村を離れる杏奈が、とある女性 に向かって話をする場面がある。私は、このシーンの禁 奈の表情が大好きだ。他人の視線や自分で決めつけた 「普通」でぎゅうぎゅうに狭められていた世界から、大 海原へ潮ぎだだしていくその瞬問が、表情びひとつで描かれ ている。

この世には見えない砲法の輸がある。確かに、これま でその魔法の輪というものは見えなかった。しかし、こ れからますます、入間が作り出す輪は可視化されていく だろう。そんな世の中で身動きがとれなくなる前に、こ の物語が、ひとりでも多くの人に届くことを私は願って いる

なお、絵コンテ集ということで、「思い出のマーニー」 を描いたスタッフの方々の本当に細かな仕事についても 人触れておきたい。原作は舞台がイギリスの小さな村だが、 映画では北海道となっている。さきらに、映画をよく観る と、「現代の」北海道が舞台であることにも気づくこと

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ができる。たとえば、由頭の公園のシーン。無邪気に遊 ぶ幼児たちの究いている短パンには、いかにも現代風だ と感じられる名前が記されているのだ(絵コンテの段階 ではまだ描かれていないが)。そんな涙が出るような細 かい作業が作品のいたるところに潜んでいる。そんな職 人技の数々を、絵コンテ集を手に取ったあなたにはしっ かりと見届けていただきたい。 最後になるが、いまこの時代に、現代の日本を舞台に して「思い出のマーニー」が作り直さきれたことに、私は 大きな意味を感じている。「普通」から清ぎだしていく 少女のあの表情を、私はこれから何度も思い出すだろう。

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朝井リョウ(あきい・りょう) 九八九年、岐阜県生まれ。作家。早稲田大学文化構想学 部卒業。二〇〇九年、『柱島、部活やめるってよ』 (集英社文 庫)で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。二〇一三年、『何者』 (新削社) で直木賞受賞。二〇一回年、『世界地図の下書き』(集英社)で坪田渡治文学賞受賞。その他の著娠に、『チア男 子』(集英社文庫)、『星やとどりの声』(角用文庫)、『もう いちと生まれる』(幻冬舎文庫)、『少女は卒業しない』(集英社)、『スペードの3』(講談社)、エッセイ集『学生時代にや らなくてもいい20のこと』(文鞭者秋)などがある。

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「思い出のマーニー」は2010年公開 の「借りぐらしのアリエッティ」でデビ ューした洲林安串監疫の第2作です。こ の作品の合下始まったのは「独立ち」 作中の2012年1月のことでした。 「アリエッティ」のときは、米林盤督(通 称「麻呂」)は鈴本級大プロデューサー の発案でいきなり監督に抜握されたわけ ですが、初めてとは思えない力量を見せ て内導大役を務めました。その後、元々 アニメーターだったので、米林は一原画 マンに戻って宮崎吾朗監督作品「コクリ コ坂から」に参加、その後の写崎政監上 作品「風立ちぬ」でも原画を描いていま した。そんな頃の2012年1月13日、 米林は鈴木と話す機会があり、会話の中

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で、もう一度監督をやらちせて欲しい、と、 自ら再登板への意欲を表明したのです。 米林は「アリエッティ」の監督を終え た直後は、すべてを出し切ってやり終え た感じを抗いたそうです。しかししばら くすると、あそこはああすれば良かった、 もう少し出来たのではないかと思うよう になり、「アリニッティ」ではや致し たことがある、また機会があったら監叔 をやってみたい、と思うようになりまし た。「アリエッティ」は宮崎唆監督が立 てた企画であり、脚本も書いていて、作 品世界の要となるイメージボードも攻枚 描いています。米林監督は、次にやると きはストーリーの始めから関わって、も う少し自分でやりたいと思っていまし た。また、やるとさきは、「アリエッティ」 のエンディングで示ぎざれたっ特望-にき

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ちんと応えるようなものを作りたい、と いう気持ちも拍いていたそうです。

さて、米林のやる気を聞いた笛木プロ デューサーは、岩波少年文庫の「思い出 のマーニーを手濃し、これを映画化し てみたらどうか、と即座に提案しました 『思い出のマーニー』はイギリスのジョ ーン・G・ロビンソンが1967年に人称 表した児童文学で、邦訳が最初に出たの は1980年。評価の高い作品であり、 宮崎台監督も好きで、2010年に発表 した「岩波少年文庫の50冊」にも選んで います。そのとき書いた推薦文は現在、 岩波新書『本へのとびら』にも再久さきれ ていますが、「この本を読んだ人は、心 の中にひとつの風景がのこされます。入 江の湿地のかたわらに立つ一町の家と、 こちらをもいている人欠。」という書き出

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しで始まることから分かるように、宮崎 監督はまずもって、この本に出てくる選 襲と、マーニーがそこにいたその屋難の 痛い窓のイメージが強く印象に残ったの でした。後にスタッフに語った話による と、この本を読んでからは、海外旅行に 出かける度に、宮崎葉督はこの「マーニ ーの窓」を探したそうで、あるとき、ア イルランドのケンメアで、ついに自分の 思いぃ描く「マーニーの窓」を見つけた、 と思ったそうです。ただし、映画化につ いてはとても難しいと感じていて、自分 には生洒映画化出来ないと思っていたそ うです。実際、これまで本国のイギリス を含め世界のどこでも映像化されたこと はないらしく、とても面白い作品ではあ るものの、映像化については困難、とこ れまで過界の映画・テレビ関係者から判 断されてきたようです。まだ企画決定は していなかったものの、鈴木は1月下甸 には海外導業部部長のジェフリー・ウェ クスラーに指示し、原作の映画化権取得 に向けて動き始めます。前述のような状

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況だったせいか、華いこの作品の映画化 権は空いており、ほとなくして契約締結 に至りました。

鈴木プロデューサーがこの本を選んだ のは、作品が素晴らしいということはも ちろんですが、ヒロインが2人いる、と いうのが大きな理由でした。鈴木は「ア リエッティーー制作を通して、米林が少女 を描くことが大変上手く、本人もそれが 好きであることを感じていました。『思 い出のマーニー』は2人のヒロインが出 てくるから、2人を描き分けるのは麻呂 にとって楽しゅ仕事になるに違いない、 麻違にはうってつけの企画だ、と鈴木は 考えたわけです。

さて、「風立ちぬ」の原画を描きなが ら原作を読んだ米林は、やはり大変面白 い作品だ、と思ったものの、困難さも強 く感じました。後に記した「企画意図」 という文章にはこう書かれていますペ「文 学作品としてはとても面白く読んだし、

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感動しました。ただ、アニメーションと して描くのは難しい内容でした。物語の 本醐味はアンナとマーニーの会話です。 その会話によって、ふたりの心に敏妙な 変化が生じていきます。そこが何より面 白いのですが、とうやってアニメーショ ンとして描けばいいのか。少なくとも僕 には面白く描ける自信がありませんでし た」。1回目の外画検討会議が2月28日 に開かれ、そこには一風立ちぬ一約作で 多忙を植めているはずの宮崎駿監督も参 加。そこで語崎監督かちらは日本を舞台に すること、という提案がなされました。 イギリスの児童文学を原作にし、日本に 舞台を置き換えてアニメーション映画を 作る、というのは「アリエッティ」ーと全 く同じです。日本人が、日本の鈴客を相 手に作るのだからそうするべきだ、とい う理由と、勝手知ったる日本を舞台にす ることで映画制作がぐっとやりやすくな る、外国が舞台だと種々の設定の調査だ けで大変、という理由もも前回と同様で、 これについては他の参加者も同意見でし

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た。そしてこの場で美術監督として種田 陽平の名前があがります。しかしこの時 点では、米林はまだこの原作を映画化す る決意が圏まりませんでした。アニメー ションとして面四いものに果たしてなる のか、難しすぎる、と。

その3日後の2012年3月2日に は第35回日本アカデミー賞の授賞式があ り、「コクリコ坂から」がアニメーショ ン作品賞を受賞したので鈴木プロデュー サーと富崎語其監督.そしてプレゼンタ ーとして前年の最優秀アニメーション作 品党を受賞した米林監督が出席。この時、 ーステキな金縛り」で美術賞を受賞した 種田陽平色出訂しており、種田は会場で 会った鈴木から、今度はアニメーション の美術をやって欲しい、と声を掛けられ ました。種田陽平は実写映画界において 日本を代表する美術監督の1人であり、 岩井邊二葉督の「スワロウテイル」、三 谷幸宮監督の「THE有頂天ホテル」 サザ・マジックアワー」、さらに海外でも クエンティン・タランティーノ玉督の「キ

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ル・ビルVol.1」マやチャン・イーモ ウ監督作品等で広くその実力が知られて いる人です。ジブリとも数年来の縁がこ の時すでにあり、2008年から翌年に かけて三訟の森ジブリ美術館で開催され た金画展示「小さなルーヴル美術館」展 と、2010年「アリエッティ」公開時 に東京都現代美術館で開催され、その後 地方巡回もして大好評だった「借りぐら しのアリエッティメメ種田陽平展」の両方 で凌術監督を務めていたので、鈴本、米 林、隔度の3人とも面識がありました。 そうした関係があり、もちろん種田の高 い能力があったので先の企画検討会議で 種田の名前が出たわけですが、授賞式の 場ではまだ具体的な依頼ではなかったの で、種田は、機会があればやります、い っでもとどうぞ、と答えるに留まりました。

さて、映画化は難しいと思い、会議で その新を話した米林ですが、鈴木はこれ しかないだろう、という考えを変えませ

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ん。鈴木の意志が固いので、米林ももう 少し考えてみようという気になってきま した。一企画意区によると、「でも、原 作を議んでからずっと頭に残るイメージ がありました。美しい温地に面した石造 りの必散の裏府で、手を取りあって寄り そっているアンナとマーニー。月光に劉 らされながらワルツを狐ってもいいかも しれない。よふたりの気持ちが繋がるその 僚らにはいつも、美しい自災のと、必地上良 い風と、普馬染みの音楽があります。僕 はイメージ画を仰枚か描いているうち に、この映画に挑戦してみたいと思うよ うになりました。」とあります。試みに 絵を描いているうちに、「マーーニー」を やってみよう、という気持ちが米林の中 に賠らんできました。3月凡日に米林は 7点のイメージスケッチをアップさせま す。そして日ほど後には、原作本の訳 都である松野正子の娘さんに会っていろ いろ衣を聞ま、資料の提供を受けました。 2012年4月頃には、「マーニー」の 企画を「風立ちねぬね」の次のスタジオジブ

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り修品として進めることがかなりり圏まっ てきます。検討を進めるうちに、鈴木か ら畠台は北海道がいいのではないか、寒 い感じの方がいいし、洋館があってもお かしくない、と提案があり、米林からは アンナの内面を表現するために、アンナ は絵を描く子にしたいという案が出され ました。5月に米林は、温地の風景を見 るため、プライベートで三浦海岸の江奈 湾に出掛けたりもしています。“また、6 月には、マーニーはマーニーのままだけ ど、アンナは「府守とすることも決ま りました。さらに、作画監督の候補とし て安藤政司の名が肖上。和安藤は1990 年に研修生二期生としてジブリに入社 し、たちまち頭角を表して「もののけ姓」 「季と千尋の神朋し」で作画監督を務め たトップクラスのアニメーターですが、 方向性の違いから2001年にジブリ 督の作品などで作画盤督等を務めてきま した。央時、安藤は久々にジブプリ作品に 多加、第7スタジオで「かぐや妊の物主」

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の天画を描いていましたが、この企画の 舌を聞き、まず原作小説を謗み始めまし た。

さて、洲林がイメージ画をさらに描く と共に、脚本の作業が始まります。「海 がきこえる」「ゲド戦記」「僧りぐらしの アリエッティー「コクリコ坂から」の脚 本に参加した丹沢主子(「海」のみ中村 香名義)に、今回も鈴木が執筆を依頼し ました。丹羽は松竹シナリオ研究所で本 格的にシナリオを学んだ経歴を持ちま す。その才能は当時高く評価されていま したが、丹羽は半本家の道は選ばずに、徳 間書店に入社し鈴木の下で『アニメージ ュ』の編集を担当。その後角川書店に移 縮しましたが、今でも本業は編集者です。 しかし時折、鈴木からシナリオ孝筆の依 頼を受け、前述のようにジブプリ作品に参 加してきました。丹羽は、米林とそれま でに描かれた絵を見ながら打ち合わせを 行い、まずはプロットを書き上げました。 そのプロットを元にさらに打ち合わせを 行い、丹麗が第一摘を苦き上げたのは

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2012年の8月5日のことでした。

一方、美術も同時進行で除々に進み始 めます。その頃、種田は中国でキアス・ リーブス監督作品の美術監督をしていま したが、? 月に鈴木から電話を受けます。 “この前会ったときにアニメーションも やってくれると言ったこと、覚えてるよ ね?” “もちろん覚えています” “いつジ プリに来られる?” というようなやりと りがあり、種田は8月2日にジブプリを訪 問することになりました。事前にジプリ から送られてきた『思い出のマーニー』 原作本を読んだ上で小金井のスタジオに 現れた種田は、この日、1回目の美術設 定の打ち合わせに参加。この時点で、も う種田がこの作品の美術監督を担当する ことは既定の事実という雰購気だったそ うです。初期の東映動画では実写映画の 美術監督がアニメーションの美術を担当 することは一応あったようですが、現在 のような制作システムが出来上がったこ

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こ40年はどの日本のアニメーション界 で、実の美術監督が席場用長編映画の 芝術監督を全面的に担当するのは恐らく 初めてのことだと思われます。この約1 風間後に2岡目の姜箱定打ち合わせが あり、その時は店崎駿功督も参加しまし た言崎監般は以前の打ち合わせで明石 港の話をしたりしましたが、この日は交 台として瀬戸内海はどうか、と提。し かし米林監督はやはり北海道でやりたい と主張し、その方向で進もことが決定し ました。また、そう決まったからには、 ということで北海道にロケハンに行くこ とも決定しました。この企画の発端には 店崎監督もわずかに関わりましたが、 元々「風立ちぬ」人制作中であったことも あり、以後、宮崎入督はこの作品にはノ ータッチに。こうして「思ぃ出のマーニ ー」は、席畑勲・富崎駿がクレジットに 一切出て来ない初めての劇場用長編ジブ リ作品となることになりました。8月末 に行われたジブリの社内会議で鈴木は 「思い出のマーニー」が「風立ちぬね」「か

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ぐや婦の物語」の後の次回作となること を正式に発表します。

さて、ロケハンですが、夏の景色を今 のうちに見てでおくべきだ、ということで、 急避8月下旬に行くこととなり、米林、 種田、そして美術部と制作部から1名ず つの計4名が根室・負路・厚岸・札幌・ 本飾などを訪ね、取材を行いました。そ の後も美術に関する打ち合わせは月1同 強のペースで2013年1月まで続け られ、種田は種々のスケッチ、設定画、 立体模型等を制作し始めます。

一方、脚本ですが、第一入を作画監督 の候補だった安藤に見せたところ、ぃいろ いろ意見が出てきました。その時点で安 藤はまだ作画監督を引き受けることは決 めていませんでしたが、参考意見という 務で、こうした方がいいのではないかと いう具体的な提案を種々、米林に伝えま す。そうした意見も反喘させつつ、第ニ 権が9月に完成。再びす同じようなやりと りがあり、改月に丹羽は第三頂を完成さ せます。そこからは、「かぐや妖の物語」

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に続いて本作ももプロデューサーを担当す ることになった西村義明が、まだ「かぐ や」の作業で多忙を極めていたにもかか わらず、その合間をぬうようにして米林、 安朋の打ち合わせを手配し、2人は西村 と共に丹羽が書いたシナリオに手を加え ていきます。安藤は系三逢が終わったあ たりで、ここまで関わったのだからこれ はもうやるしかない、ということで、「か ぐや」の担当作業が終わったら「マーニ ー」の作画監督になることを承諾します。 本作は安藤、種田2名の参加がスタッフ 編成において大きな論味を持っていまし た。安藤はジブプリで育ったアニメーター ですが、自ら決意しジブプリを離れ、10数 年ジブリの外で経験を積んできました。 種田はそもそも実写癌の美術監督です。 どちらも、従来のジブプリにないものを発 抑してでくれるのではないか、それがこれ まで培ったジブリらしい要至と組み合わ さった時に、新しい何かが生まれる作品 になるのではないか。そうした狙いが2 人の起用にはありました,2012年11

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月妨日、米林は「風立ちぬ」の担当パー トを終了させ、以後は「マーニー」に専 らの挫け持ち作業でした。民月1日には 小金井に比較的近い場所にある建物の- 竹に童備窒を立ち上げ、ラフコンテの制 作に米林は取り玉かります。

子どものための映画を

年が明け、2013年1月には羽回目 の美術設定打ち合わせ及びその総括を実 ての美術設定はここまででほほ固まりま した。米林和監督はそれに基づいて絵コン テを描くことが出来たので、非常に有難 かったとのことです。2月妃日、脚本の ですが、安藤、米林の意見も入っている ので、本作の絢本クレジットは3人の連 名になりました。3月2日にはラフコン テがアップし、米林和監督は絵コンテの清 書作業に入ります(ちなみに絵コンテラは

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おおむね7月中に出来上がり、8月30日 に正式にOKが出ました)。5月7日に は「かぐや」を終えた安藤が「マーニー」 に合流。この日、前述の「企画意図」を 書いた米林は、この文を 「〜もう」度、 子どものためのスタジオジブリ作品を作 りたい。この唆画を観に来てくれる『庁 奈』や『マーニー』の横に座り、そっと 寄りそうような映画を、僕は作りたいと 思っています。」と結びでました。米林は また、別の機会に、。高畑、宮幅のいな いジブリはこんなものしか作れないの か、とは言わせない・と語っています。 温和な米林がこういらう発言をするのは異 例のこと。この作品にかける彼の意気込 みが伝わってきます。2013年6月7 日に作画イン、6月27日にはそれまで第 2スタジオ2階にあったメインスタッフ のスペースを法位置の第1スタジオ2陰 に移し、こうして「思い出のマーニー」 なは本格的に制作が開始されました。

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(2012-01-13) 米林宏昌、鈴木敏夫プロデューサー に監督第2作の意欲を表明。鈴木 は『思い出のマーニーを}提案。

(2012-02-28) 第1回企画検討会議が開かれる。

(2012-04-24) 第1回シナリオ検討会議が開かれ る。この融、次回作としてばぼ決定。

(2012-06-02) ジブリ美術館で企画展示「『挿絵が 僕らにくれたもの』展~通俗文化 の源流~」スタート。

(2012-08-02) 第1回美術設定打ち合わせ。種田 陽平美術監督が参加。

(2012-08-05) 丹沢圭子による脚本第一稿が上が る。

(2012-08-28) 北海道でロケハン実施。先発隊に米 林、種田らが合流し30日まで取材。

(2012-10-09) 脚本第三稿アッブ。以後、安栗政 司作画監督、米林和監督、西村義明 プロデューサーが検討を重ね、翌年 2月に最終的な決定稿完成。

(2013-06-01) ジブリ美術館っボ示「ジ の森のレンズ展」スタート。

(2013-06-07) 作画イン。

(2013-07-20) 「風立ちぬ」劇場公開。

(2013-09-06) 宮崎葵監督、引退の記者会見。

(2013-11-23) 「かぐや姫の物語」劇場公開。

(2014-05-31) ジブリ美術館で企画展示「クルミ わり人形とネズミの王さま展」ス タート。

(2014-06-25) 初号試写。

(2014-07-19) 劇場公開。